蒲生氏郷 秀吉が怖れた名将の生涯と逸話

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秀吉に称賛される

氏郷の拒絶を受け、光秀は日野城を攻め落とそうと計画しますが、やがて羽柴秀吉が畿内に戻り、攻めかかってくる様子を見せたので引き下がりました。

そして「山崎の戦い」で光秀は秀吉に敗れ、逃走中に落ち武者狩りにあって死亡しています。

混乱が収まると、氏郷は義理の兄弟である信長の次男・信雄のぶかつに従って都に上り、秀吉と対面しました。

秀吉は信長の遺族を救援した、氏郷の冷静沈着な措置を褒め称え、光秀の滅亡によって領主がいなくなった近江5千石の領地を、蒲生氏に与えています。

こうして蒲生氏は勢力を伸ばし、秀吉との関わりが発生しました。

そして本能寺の変の数ヶ月後に父が隠居し、氏郷は蒲生氏の当主になっています。

秀吉に味方する

その後、秀吉は信長の後継者となるべく勢力争いを演じ、柴田勝家と対立する情勢になりました。

両者はともに、他の織田氏の家臣たちを味方につけるべく、盛んに勧誘を行います。

氏郷も秀吉と勝家の双方から誘いを受けましたが、仲のよい信雄が秀吉に味方し、秀吉から領地を授与していたこともあって、秀吉に味方することにします。

この際に秀吉から要請を受け、妹の三条殿を秀吉の側室として差し出しました。

こうして氏郷は秀吉とも義兄弟になり、関係が深まっています。

豊臣秀吉

【氏郷との友誼を求めた秀吉】

なお、この戦いは北伊勢、美濃(岐阜県)、北近江の三ヶ所で展開される広域戦となりました。

氏郷は北伊勢の戦いに加わることになり、かつての師である勝家と対決する事態は避けられています。
(秀吉と勝家は北近江で対戦しました)

そして秀吉と敵対した滝川一益かずますと対戦し、いくつかの城を攻め落とす戦功を立てています。

亀山城を縁者に譲る

やがて秀吉が勝家を賤ヶ岳しずがたけで討ち破り、大勝を収めると、氏郷は報償として伊勢の亀山城を与えられることになります。

しかし氏郷は、「亀山城はせき氏が先祖代々、受け継いで来た城なので、関盛信もりのぶに与えて欲しい」と申し出ました。

関盛信は氏郷の叔母と結婚しており、蒲生氏の縁者です。

盛信はかつて、信長に抵抗して亀山城を取り上げられていた、という過去がありました。

このために氏郷は自分の報償を差し出し、「盛信が不憫だから、城を返してやってほしい」と願い出たのでした。

秀吉は「ならばそなたの望みに任せよう」と応じ、盛信を亀山城主にしました。

盛信は氏郷に大変に感謝し、以後は氏郷の与力大名として働くことになります。

この逸話から、氏郷が私欲に乏しく、義に厚い性格だったことがうかがえます。

小競り合いと罠

氏郷は初陣以来、常に先頭に立って戦う武将でしたが、やがてこれを利用し、氏郷を討とうとする者が現れました。

氏郷は、秀吉と徳川家康が対決した「小牧・長久手ながくての戦い」に参戦しているのですが、この時も伊勢の平定を担当しています。

滝川一益が追放された後、北伊勢は信長の次男・信雄が支配するようになっていました。

信雄は家康とともに秀吉と戦っていましたので、再び伊勢を攻める必要が生じたのです。

氏郷は秀吉と信雄、二人の義兄弟の対決に巻き込まれたことになりますが、この時には秀吉を選んでいます。

そして氏郷は、信雄の領地である美濃の城を攻め落とした後、伊勢の松ヶ島まつがしま城を拠点とし、付近の敵対勢力の攻略にあたりました。

そして近隣の日置ひおき城主・木造こづくり長政が氏郷の敵となり、小競り合いが続きます。

木造長政は氏郷の支配地に夜な夜な押し入り、畑で育ちかけた麦を刈るなどの妨害工作をしかけて来ました。

氏郷は自ら先頭に立って戦い、これを何度も撃退しています。

こういった事態が続くうちに、長政は罠をしかけて氏郷を討ち取る計画を立てるようになります。

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