故郷を顧みず
こうして引き立てられる前のこと、姜維の元に母から「故郷に戻ってほしい」という手紙が送られてきました。
これに対して姜維は、「百頃の良田を賜れば、一畝(百項の一万分の一)の土地しかない我が家のことは、気にかかりません。
遠くにある志を追う者は、故郷に帰りたいとは思いません」と返信しています。
涼州では郡太守の部下でしかありませんでしたが、蜀では将軍に取り立てられ、爵位も与えられ、おおいに地位が高まりました。
このため、蜀のために働いて名をあげた方がよいと、姜維は判断したのでしょう。
大きな魏に仕えて低い地位に甘んじるよりも、小さな蜀で出世する道を選んだのだとも言えます。
司馬懿を追い返す
姜維はその後、北伐に従軍し、護軍として諸葛亮の側に仕えました。
やがて235年に諸葛亮が五丈原で死去すると、姜維は他の側近たちとともに、蜀軍を撤退させる任務を担います。
姜維たちが準備を整えて出発すると、周辺の住民が魏の将軍・司馬懿に通報しました。
司馬懿はすぐに軍を動かし、追撃をかけてきます。
それを知った姜維は楊儀(諸葛亮の副官)に命じて軍旗をかえし、太鼓を打ち鳴らさせ、立ち向かう様子を見せます。
すると司馬懿は引き退き、それ以上は近づこうとしませんでした。
このことから、「死せる孔明、生ける仲達を走らす」ということわざが作られます。
(仲達は司馬懿の字です)
司馬懿はこれを知ると、「わしは生者なら相手にできるが、死者を相手にするのは苦手だ」と語りました。
諸葛亮の死後も出世を重ねる
姜維は成都に帰還すると、右監軍・輔漢将軍になりました。
そして諸軍を統率するようになり、平襄候に爵位があがります。
やがて238年には、大将軍・蒋琬に従って漢中に駐屯しました。
蒋琬が大司馬に昇進すると、姜維は司馬となり、一軍を指揮して西方に侵入するようになります。
このようにして、姜維の蜀軍における地位は、着々と高まっていきました。
涼州刺史となる
243年になると鎮西大将軍に昇進し、涼州刺史(長官)に就任します。
これは蒋琬の上奏によるもので、自身が病にかかったので、涼州を姜維に攻略させようという意図をもっていたのでした。
しかし蒋琬は、246年に亡くなります。
その翌247年には、姜維は衛将軍(軍の最高幹部)となり、大将軍の費禕とともに録尚書事(政務長官)となります。
この後は、費禕が蜀を主導する立場につき、姜維はその次席の立場にまで立身していました。
各地で戦う
この年、汶山郡平康県に住む蛮族が反乱を起こしたので、姜維は軍勢を率いてこれを討伐します。
また、涼州の隴西や南安などに出陣し、魏の大将軍・郭淮や夏候霸と、洮水の西で戦いました。
そして蛮族の王・治無戴らが降伏をしてきたので、姜維はこれを迎えに行き、成都の近くに住まわせます。
このようにして、姜維は涼州方面に影響力を持つようになります。
涼州への侵攻を計画する
249年になると、姜維は節(独自裁量権)を与えられ、西平に出陣しますが、勝利を得られずに帰還しました。
姜維は西方の風俗に精通しているという自信を持ち、軍事の才能があると自負していましたので、各地の羌族や胡族を味方に引き入れ、友軍として用いようと考えます。
そうすれば、隴よりも西の地は、魏から切り離して蜀が支配できるだろうと考えました。
【次のページに続く▼】