姜維 諸葛亮に見いだされて魏と戦うも、蜀の滅亡を招いた大将軍

鄧艾に敗北し、批判される

262年になると、姜維は軍を率いて候和こうわに出撃しましたが、そこで再び鄧艾に撃破されてしまいます。

このために引き返し、沓中とうちゅうに撤退しました。

この時、右車騎将軍の廖化りょうかが、姜維を批判しています。

「『戦争とは火のようなもので、戦いをやめなければ、必ず自分の身を焼くことになる』と『春秋左氏伝(史書)』に記されている。

これは伯約(姜維)にあてはまる。

智謀が相手を上まわっておらず、武力も敵より劣っている。

あくことなく戦いをしかけたとしても、どうして手柄を得られよう。

『詩経』に書かれた『我より先立たず、我より後れず』(どうして自分の生まれる前か、死んだ後ではなかったのか)という言葉は、今の事態にあてはまる」

このように述べ、姜維の手によって蜀が衰退し、滅びそうになっていることを嘆いたのでした。

先の張翼の批判といい、姜維の方針に、蜀軍の重鎮たちが賛同していなかったことがうかがえます。

立場や危うくなる

姜維は元より、涼州を離れて蜀に身を託した人物で、毎年のように魏に攻撃をしかけましたが、功績を立てることができませんでした。

そうこうしているうちに、宮中では宦官かんがん黄皓こうこうが劉禅に取り入って、権力を握るようになります。

そして右大将軍の閻宇えんうが、黄皓と結託してしまいました。

黄皓は、密かに姜維を廃して閻宇を大将軍にしようと画策するようになり、姜維の立場が危うくなります。

この時、「姜維を召喚して益州刺史とし、軍事権を剥奪すべきです」と上奏しようとする動きがありました。

姜維はこのような黄皓らの企みを察知し、危惧を抱いて成都には帰還しなくなります。

黄皓を排除しようとするも、失敗する

姜維は黄皓の専横を憎み、劉禅に上言して殺害しようとしたことがありました。

しかし劉禅は「彼はただの使い走りの召使いにすぎない。

先には董允とういん(劉禅の側近)も黄皓を嫌っていたが、わしはそれを残念に思っていた。

君が気にかけるほどの男ではない」と言って、取り合いませんでした。

姜維は、葉が枝にまとわりつくようにして、黄皓が皇帝に取り入っているのを知り、失言を恐れてそれ以上は何も述べず、退出します。

劉禅は黄皓に命じて姜維に謝りに行かせましたが、姜維は沓中で屯田をしたいと申し出て、宮中から害を加えられることを避けました。

このようにして、蜀は内部で問題を抱えるようになったのですが、一方では姜維も鄧艾に勝利することができず、完全に手詰まりとなっていきます。

もしもこの後で蜀が滅ばなかったとしても、姜維は遠からず、失脚していた可能性が高かったでしょう。

魏の侵攻を察知する

263年になると、魏は数十万の大軍を動員し、一挙に蜀を攻め滅ぼそうとする計画を立てました。

「蜀は姜維一人を頼みにしているが、彼が遠く本拠から離れていることに乗じれば、勝利することはたやすい」

「姜維がしきりに国境を騒がせているが、蜀の国土は小さいので、民は疲弊し、財力は尽き果てている」というのが、魏の見立てでした。

蜀は内部で抱えている二つの問題に、つけこまれることになったのです。

姜維は魏軍の動きを察知すると、成都に危険を知らせます。

「聞くところによりますと、鐘会しょうかい(魏の大将軍)が関中で出撃の準備を整え、侵攻の計画を練っているようです。

張翼・廖化の二人に諸軍を指揮させ、陽安関の入り口と、陰平橋のたもとを守らせ、危険を未然に防がれますように」

しかし、黄皓はまじない師の言うことをうのみにし、敵は絶対にやってこないと思い込みました。

そして劉禅に姜維の言葉を取り上げないようにと、内密に申し出ると、劉禅はその通りにします。

このことを、群臣は誰も知りませんでした。

こうして軍事のことがわからない者が権力を握った蜀は、防衛体制を構築するのが遅れ、滅亡へと突き進んで行くことになります。

【次のページに続く▼】

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