魏の侵攻がはじまる
魏は軍を三つに分け、鐘会と鄧艾、諸葛緒の三名がこれを率いました。
鐘会が駱谷(漢中方面)に向かい、鄧艾が沓中(西部)に侵入してくると、ようやく蜀軍は動き始めます。
右車騎将軍の廖化が沓中に送られ、姜維の援軍となりました。
そして左車騎将軍の張翼と、輔国大将軍の董厥らを陽安関の入り口に向かわせ、別動隊として救援体勢をとることになりました。
この軍勢は陰平に到着した際に、魏将・諸葛緒が建威に向かったと知り、警戒のために駐屯します。
このため、陽安関の守りが薄くなる結果を招きました。
鄧艾に敗れ、漢中も突破される
一か月ほどが経過すると、姜維は鄧艾に撃破されてしまい、陰平に撤退します。
一方、漢中では鐘会が攻撃を開始し、漢・楽の二城が包囲されました。
そして鐘会は別動隊を派遣し、陽安関にも進撃させます。
すると関を守っていた蒋舒がこれを明け渡し、降伏してしまいました。
蒋舒はこれ以前に降格人事を受けたことを怨んでおり、このために魏軍がやって来ると降伏したのでした。
こうして魏軍が、蜀の重要な防衛拠点である漢中を突破できる情勢となります。
鐘会は陽安関が落ちたと知ると、長駆進撃し、成都に迫ろうとしました。
このような結果からすると、姜維が漢中の防衛体制を変更したのは、失敗だったと言えます。
剣閣で防衛し、鐘会を苦戦させる
姜維と廖化は陰平を捨てて撤退していた時に、ちょうど漢寿に到達した張翼や董厥に出会い、合流して剣閣に立て籠もります。
ここは険しい山を利用した、非常に防御力の高い拠点で、鐘会を迎え討つには絶好の場所でした。
鐘会はこの様子を見て、姜維に手紙を送ります。
「あなたは文武両道の才能を持たれ、優れた策略を抱き、功業を巴・漢の地にあげられました。
名声は中華にも響き渡り、遠きにも近きにも、あなたに心を寄せる者がいます。
昔に思いを馳せると、かつては大志を同じくしていました。
(かつて、姜維が魏に仕えていたことを指しています)
呉の季札と鄭の子産の交わりは、友情のあり方をよく理解していました。
(呉の季札と鄭の子産は、所属する国が異なっていても、理解しあっていた者たちです。)」
これによって鐘会は姜維をなびかせようとしたのですが、姜維は返事を出さず、軍営を連ねて要害を固めました。
鐘会はこれを攻め落とすことができず、やがて食糧が不足し始めます。
このため、撤退を検討するようになりました。
鄧艾に緜竹を攻め落とされる
しかし、別軍を率いる鄧艾は、陰平から景谷道を通り、山中の険しい道を突破します。
そして剣閣の脇を通り抜け、成都の前衛である緜竹にまで到達しました。
ここを諸葛亮の子・諸葛瞻が守っていましたが、鄧艾に撃破されて戦死します。
この時、成都は魏軍がやって来ることを想定しておらず、兵を集めることすらしていませんでした。
このため住民は逃げだし、大きな混乱に陥ります。
黄皓に権力を握らせた顛末が、このありさまでした。
とても防衛できる状態ではなかったので、譙周が劉禅を説得し、魏に降伏を申し入れます。
すると鄧艾はこれを受け入れて進軍し、ついに成都を占拠しました。
こうして蜀は、あえなく滅亡しています。
鐘会に降伏する
姜維らは諸葛瞻が敗北したと知ると、劉禅は成都を固守するつもりだとか、東の呉に入国するつもりだとか、南方の建寧に入るつもりだとか、様々に情報が錯綜します。
このために軍を引き、広漢の街道を通って真偽を確かめようとしました。
すると劉禅から降伏の勅令が届いたので、武器を投げ出し、鎧を脱いで鐘会の元に出頭します。
この時、将兵は怒りのあまり、刀を抜いて石をたたき切ったといいます。
彼らからすれば、自分たちは剣閣を守り抜いたのに、成都がもろくも降伏してしまったことが、許せなかったのでしょう。
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