諸葛誕の反乱に乗じようとする
翌257年になると、魏の征東大将軍・諸葛誕が淮南で反乱を起こします。
このため、魏が関中(涼州)に配置していた守備兵は、東方へと向かいました。
姜維はこの隙を利用して秦川へ向かおうとし、再び数万の軍勢を率いて駱谷に出て、沈嶺に到達します。
この頃、沈嶺の側にある長城には、たくさんの食糧が蓄えられていましたが、守備兵が少なかったので、姜維がやって来たと知り、人々はみな恐れました。
しかし、間もなく魏の大将軍・司馬望が守備にあたり、鄧艾も駆けつけ、長城に守備陣をはります。
姜維は前進して芒水に駐屯し、山を利用して陣営を築きました。
すると司馬望と鄧艾は渭水に沿って防御を固め、姜維に戦いを挑まれても応戦しませんでした。
姜維は魏軍から食糧を奪うつもりでおり、携えた物資が充分ではなかったので、積極的にしかけるのも難しく、戦況が停滞します。
そうこうするうちに、258年になると諸葛誕が敗北したとの知らせが届いたので、むなしく成都に帰還しています。
特に戦功はなかったのですが、この後で大将軍に復帰しました。
姜維はこうして毎年のように大軍を動かしたものの、蜀の領地は増えておらず、国内の疲弊がますます進行していきます。
譙周に批判される
こうして姜維が蜀の財力を消耗し、民を苦しめる結果を招いたので、光禄大夫(皇帝の側近)の譙周が、『仇国論』という文章をあらわし、姜維を批判しています。
この文章の中で譙周は、「弱国が強国に勝つには、徳のある統治を行って人材を引きつけないといけないのに、いたずらに軍勢を動かして民を消耗させ、敵の隙をうかがうようなふるまいをしていては、とても勝利できない」といった旨の主張をしました。
譙周は姜維を名指しはしていないのですが、その意図するところは明らかでした。
このようにして、姜維に対する反感は、蜀の内部で高まっていきます。
北伐の困難さ
姜維は涼州の拠点を奪い、その西側に住む蛮族を従え、魏から切り離して支配する、という戦略によって動いていました。
これは諸葛亮の北伐と、全く同じ方針です。
しかし諸葛亮が成功しなかったように、姜維も成功しませんでした。
蜀は周囲を山岳と河川に囲まれており、守るにはいいのですが、よそに攻めこむには、大変な労力を要する土地でした。
険しい山に阻まれ、食糧の輸送がしづらいので、他州に攻めこんでも長く帯陣することができず、攻城戦を行って拠点を奪取するのが困難だったのです。
諸葛亮は屯田を行ってこの問題を解消しようとしますが、効果を上げる前に死去し、姜維は特に対策を取らず、魏軍から食糧を奪おうとしました。
このため、諸葛亮と同じ問題に阻まれ、大きな戦果をあげることができないでいたのでした。
費禕が「丞相でもできなかったことが、我々にできるはずがない」と述べたのは、これが原因だったのです。
漢中の防衛体制を変更する
その昔、劉備は漢中の抑えとして魏延を駐屯させ、諸陣営に充分に兵を配置しましした。
これによって外敵を防ぎ、もし侵攻を受けても、跳ね返せるだけの体制を構築していたのです。
魏の曹爽が率いる大軍に攻めこまれた時に、王平が撃退できたのも、この制度が継承されていたおかげでした。
しかし、姜維は建議をし、防衛体制の変更を申し出ます。
「諸陣営を交錯させて守備をするのは、『門を幾重にも設ける』という『周易(古典)』の趣旨にかなっていますが、防衛にはふさわしくとも、これによって大勝を得ることはできません。
よってこれを改め、諸陣営の武器と兵糧を集め、引き退いて漢・楽の二城に兵力を集中させます。
そして敵を平地に侵入させず、関所の守りを重視して防衛に当たらせるのがよいでしょう。
敵が攻めて来た時には、遊撃隊を両城から出撃させ、敵の隙をうかがいます。
敵軍は関所を突破することができず、野に放り出された穀物を接収することもできず、遠くから食糧を運ぶしかなくなり、自然と疲弊し、物資が欠乏します。
敵軍が撤退を始めたら、諸城から出撃し、遊撃隊と一緒になってこれを撃破します。
これこそが敵を殲滅する方策です」
この結果、督漢中の胡済を漢寿に移動させ、監軍の王含に楽城を守らせ、護軍の蒋斌に漢城を守らせることになります。
また、西安や建威、武衛など、各地に防御陣を築きました。
この建議からも、守るだけでなく攻めるべき、魏になるべく損害を与えるべきだとする、姜維の戦略が見えてきます。
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