反乱が実行に移される
やがて鐘会は鄧艾を罪に陥れ、都に召還されるように仕向けます。
鄧艾は蜀を攻め滅ぼす大功を立てましたが、やがておごり高ぶるようになり、「姜維は彼なりに当代の英雄ではあるのだが、わしと出会ったために、追いつめられることになったのだ。相手が悪かったと言える」などと発言し、顰蹙を買っていました。
それ以外にも、劉禅を勝手に車騎将軍に任命するなど、専断が目立つようになり、それを糾弾され、謀反人とされたのでした。
こうして蜀から、姜維を苦しめた強敵が排除されます。
そして鐘会は、姜維らを率いて成都に入り、益州の牧(長官)を自称し、反乱を起こしました。
襲撃され、死亡する
鐘会は姜維に五万の兵を授け、魏を打倒するための先鋒に任じるつもりでした。
一方で、自分に従わない魏の将兵を拘束したのですが、やがて彼らに「近いうちに皆殺しにされる」という偽の情報を吹き込む者が現れました。
すると将兵たちは憤激し、外にいた味方と協力して脱出し、鐘会と姜維を襲撃します。
この時、姜維は鐘会から武器と鎧を与えられているところでした。
少しすると「城に反抗する兵たちが押しよせてくる」という知らせが姜維たちの元に届きます。
鐘会が「どうしたらよかろうか」とたずねると、姜維は「ただ打ち倒すのみです」と答えました。
やがて反抗する者たちの人数が増え、姜維たちに攻めかかってきます。
姜維は鐘会の近習たちとともに戦い、五、六人を斬り捨てましたが、やがて力尽き、格闘の末に討ち取られました。
享年は63でした。
そして鐘会も殺害され、蜀を復活させる計画は失敗に終わっています。
この後で姜維の妻子もまた、処刑されました。
姜維は死んだ時に腹をさかれましたが、「肝は一升の大きさだった」と記されています。
郤正の評
蜀の学者である郤正は、姜維を評する論文を書いています。
「姜伯約は上将の重責を担い、群臣の上に位置していた。
粗末な家に住み、財産を蓄えず、別棟に妾を置く不潔さもなく、奥間で音楽を奏でさせて楽しむこともなく、支給された衣服をまとい、備え付けの車馬を用い、飲食を節制していた。
ぜいたくをせず、倹約もせず、支給された俸禄をそのまま使い果たした。
彼がそうした理由を推察するに、貪欲な者や汚い者を激励しようとしたり、自分の欲情を抑えて断ち切ろうとしたわけではない。
ただそれだけで満足しており、多くを求める必要はないと考えたのだろう。
人の議論は、成功者を称賛し、失敗者をけなし、高いものをさらに持ち上げ、低いものをさらに押さえつける。
誰も彼もが、姜維が身を寄せる場所もなく、その身が殺害され、一族が根絶やしになったことを理由にして貶め、評価を見直そうとしない。
これは『春秋(儒教の史書)』が示す評価の基準とは、異なったものである。
姜維のように学問を楽しんで倦むことなく、清潔で質素で、自己を抑制した人物は、その時代の模範なのだと言える」
このようにして、郤正は姜維の生活態度を称賛し、模範になれる人物だと評しています。
姜維評
三国志の著者・陳寿は「姜維は文武の才能を持ち、功名を立てることを志した。
しかし軍事をもてあそび、むやみに外征を繰り返し、判断は明晰ではなかった。
このために最後は、無惨な死を迎えることになった。
『老子』には「大きな国を治めるのは、小さな魚を煮るのに似る」と書かれている。
(小さな魚を煮る時には、つつきまわしてはいけない。民を治めるのに、煩瑣な法令で縛ってはいけない、という意味)
ましてや小国において、何度も民の生活をおびやかしてよいものだろうか」と評しています。
一方で、先の郤正の評を収録したのも陳寿でした。
姜維は文武両道で、生活態度も好ましく、個人としては優れた人物だったと言えます。
そして大きな志を持ち、最後まで蜀を復活させようと奮闘しており、忠義の心も備えていました。
勢力で圧倒的に蜀にまさる魏軍に、何度か勝利していることからも、確かな軍事能力を備えてもいます。
しかし、より高次の戦略を検討する能力は欠けており、むやみに軍を動かして蜀を疲弊させ、最終的には滅亡に導いてしまいました。
蜀の滅亡は姜維ひとりの責任ではありませんが、大きく影響を与えたのも確かです。
諸葛亮に及ばない才能しか備えていなかったのに、諸葛亮を超えようとしたのは、思い上がりだったと言えます。
これらのことから、姜維には毀誉褒貶がつきまといやすくなり、その評価が定まりにくくなっています。