京で薩摩藩は称賛を受ける
生麦事件は、国内では「快挙である」として受け止められ、薩摩藩の人気は大変に高まっていきました。
京に到着した久光の行列を拝見しようと、貴賤を問わず老若男女が道路に集い、熱い視線でこれを迎えた、という話が残っています。
それほどに当時は軍艦で脅しをかけてくる諸外国への敵愾心が強まっており、幕府の弱腰の対応への不満が高まっていたのでした。
これに薩摩藩が一撃を加えたことで、その武威を頼ろうとする風潮が発生していくことになります。
なお、久光自身は性急な攘夷に反対しており、朝廷に対して軽率に諸外国への攻撃を行わないように要請する意見書を送っています。
このことからわかるように、生麦事件はあくまでも偶発的な事件であり、一部の藩士を除き、薩摩藩そのものには、積極的に外国人に害をなそうとする意図はありませんでした。
困惑する幕府
一方で幕府は、薩摩藩から犯人を差し出させることができず、ニールからは強硬に犯人の処罰を求められます。
ニールは戦力不足を冷静に認識していたものの、その弱みを幕府には見せず、表面的には強い態度をとって幕府を責め立てたのです。
幕府には危険性を認識しながらも、久光が東海道を通過することを、居留地に通告するのを怠ったという落ち度がありましたので、リチャードソンの無礼を指摘して、これを退けることができませんでした。
そもそも幕府の外交態度はペリーの来航以来、諸外国に屈服することで一貫しており、これが国内で幕府の人気が急速に落ちていった原因になっています。
ニールは本国と連絡を取ってから、後に賠償請求をすることを幕府に告げ、さしあたっては各地に番所を設置して、街道や居留地の警備を厳重にすることを要求しました。
諸国の公使たちも同様に、幕府に事態の重要さを警告し、具体的な対策の提示を求めました。
それまでの襲撃事件は個人によるテロ事件でしたが、今回は日本有数の貴族の家臣の手によって、白昼堂々と発生したものでしたので、国際問題へと発展したのです。
これに対し、幕府は街道や居留地の警備の強化や、東海道の路線の変更などの保安対策をとると返答します。
しかし、肝心の犯人の処罰がいつまでも行われなかったため、ニールら公使たちが満足することはありませんでした。
世の風評と幕府の対応
こうして薩摩藩が幕府を多いに困らせる事態を作り出したことで、「薩摩藩は幕府を追い詰めるために、わざと外国人を殺傷して後難を幕府に押しつけたのではないか」という風評が立つようになりました。
事前に薩摩藩が幕府を圧迫して改革を迫ったことの影響もあり、薩摩藩と幕府の関係はひどく悪化していきます。
これを受け、幕府の中には兵を出して久光一行を追撃してはどうか、という強硬策を唱える者が現れました。
しかし、すでに幕府の諸藩に対する統制力が衰えている中で、そのような策を取ると、日本中で反乱が起きて収拾がつかなくなるのではないか、と危惧する慎重論が優勢となり、実行されることはありませんでした。
薩摩藩の主張
一方、薩摩藩は「大名行列の作法は厳重なもので、これを犯した外国人たちの方に罪がある」と主張し、「それなのに幕府がイギリスの意に従い、薩摩に犯人を差し出せと言うのはおかしい」と述べます。
「そもそも幕府が大名行列への対応を、諸外国と取り決めておかなかったことに問題がある」とも告げ、幕府の落ち度を責め立てました。
このあたりの薩摩藩の主張は筋道が通っていましたので、幕府は反論ができませんでした。
そして「どうしても差し出せというのなら、数百人がひしめく行列の中で誰が犯人だったかわからぬから、全員を差し出すので取り調べるがよろしかろう」と幕府に通告しました。
しかし幕府は薩摩藩の勢威を恐れており、「ならば全員を差し出せ」と言い返すことができません。
このために事件はいっこうに解決されず、幕府はイギリスと薩摩藩の間で板挟みとなり、どちらからも見損なわれていきました。
さらに薩摩藩は、「もしイギリス艦隊が事件に抗議するために鹿児島に来航するのであれば、国辱を招かぬよう、穏やかに応接する用意がある」と述べ、直接イギリスに対応するので、もはや幕府の出る幕はない、とまで宣言しています。
こうして幕府は日本の代表政府としての役割を果たせず、その権威はさらに失墜することになりました。
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