その後の曹操
曹操は障害となっていた荀彧を葬った後、魏公に就任し、後に一段上の魏王の地位も得ています。
しかし戦略を担当していた荀彧を失ったことで、その後の軍事行動には精彩を欠いており、漢中で劉備に敗れ、益州を制することはできませんでした。
また、荊州から関羽に攻め込まれた際には、孫権と協力してこれを撃退しますが、代わりに孫権の荊州南部の支配を認めることになり、呉の勢力が拡大する状況を招いています。
この結果として、こちらも支配下に置くことに失敗しています。
こうして戦略的な失敗を積み重ねた後、曹操は大陸の統一を果たせず、皇帝にもなれず、魏王のままで死去しています。
曹操の死後に後を継いだ曹丕が献帝から皇位を譲り受けていますが、これを機に劉備が蜀漢の皇帝になり、孫権も呉の皇帝を名のってしぶとく抵抗を続けたため、曹氏はついに完全な覇者となることはできませんでした。
廟所に祭られず
曹操の死後、その廟所には荀攸などの功臣たちが祭られましたが、この中に荀彧は含まれていません。
最後に曹操と仲違いをし、死に追いやられたわけですので、荀彧も祭られることを望まなかったでしょう。
こうして曹操は「我が子房」と呼んだ荀彧を最後まで仕えさせることができなかったため、大陸の統一に成功した劉邦と張良とは、異なる結末を迎えることになりました。
仕える主君を誤った
荀彧は後漢の末期において、その復興を目指して活動した人物だと言えます。
自らが勢力の頭領になるのは向いていなかったため、曹操を担いでその目的を果たそうとしました。
このあたりは秦に故国の韓が滅ぼされたことの復讐を、劉邦を担いで成し遂げようとした張良と似たところがあります。
張良の場合は、秦と項羽の打倒という目標を劉邦と共有できたので、生涯を通して仲違いをせずにすみましたが、荀彧と曹操の場合はそうはいきませんでした。
曹操は漢に取って代わって自らの王朝を立てたいという野心を持っていましたし、そもそも徐州の住民を虐殺したり、喪が明けていない未亡人を我がものにするなど、儒教的な道徳心を備えていない人物でした。
荀彧は、有能であっても自分の目的にそぐわない主君を担いでしまっており、このことが最終的な決裂と不幸を招いたのだと言えます。
荀彧は戦略の立案や統治能力、人物眼など、どれをとっても一流の人物でしたが、仕える主君を誤ったために、その志を遂げることはできませんでした。
人が十全に生き、大きな事業を成し遂げるには、根本の部分でしっかりと思想や目的が共有できていなければならない、ということなのでしょう。
荀彧の子は司馬氏に協力する
荀彧の家督は、兄たちが早世したため、6男の荀顗(じゅんぎ)が継いでいます。
荀顗が家督を継いだ頃には、魏では司馬懿・司馬師らが専横を強め、曹氏の皇帝をないがしろにするようになっていました。
荀顗は司馬懿らと良好な関係にあったため、彼らの簒奪に協力する姿勢を見せました。
この影響もあって、曹操の子孫の王朝は途絶え、代わって司馬氏が晋を建国し、皇帝の地位を得ています。
こうした荀顗の動きは、曹氏への忠誠が欠けていると非難されましたが、曹操の父・荀彧に対する仕打ちの意趣返しであったとするならば、その行動には正当性があったと言うこともできるでしょう。
荀彧の子孫は数多く、晋の時代にも高官に登った者も多く、その後の五胡十六国の時代にも活躍した人材を輩出しています。
関連記事



