北条氏政と氏直が、小田原征伐で豊臣秀吉に滅ぼされたワケ

秀吉の計略

機敏な秀吉はこの状況を見逃さず、さらに追い打ちをかけました。

まず、右筆ゆうひつ(秘書)の山中長俊ながとしに命じ、忍城城主・成田氏長に寝返りを促す書状を送らせます。

山中はかねてより、連歌を通じて成田と付き合いがあり、その関係を利用したのです。

すると成田は「誘いに応じる」と返事を送ってきました。

この書簡を入手した秀吉は、家康を通じて氏直に届けさせます。

こうして氏直は、成田が寝返ろうとしていたことを知り、さらに秀吉から「城中はもはや裏切り者だらけだ。速やかに降伏せよ」という手紙も送られて来ました。

これによって城内の混乱は、もはや回復できぬほどに深刻なものとなります。

「太閤記」という書物には「小田原城中は不和のちまたとなり、兄は弟を疑い、弟は兄を疑うようになった。親子兄弟の間も不信に陥り、他人同士ではよりいっそう、疑いが募っていった」と書かれていますが、まったくその通りの状況になっていたと思われます。

そして6月26日には、かねてより普請をしていた石垣山の城塞が完成し、その威容を小田原城内に見せつけました。

これは壮大な天守閣を備えた大城で、石垣山は小田原城を見下ろす地形にありましたので、城内の士気をさらに挫く上で、少なからぬ影響を及ぼします。

こうして秀吉は人心を打ち砕くことで、小田原城の堅固な防御を無力化したのでした。

氏政は降伏を拒む

6月24日になると、秀吉は黒田官兵衛や滝川雄利かつとしを城中に遣わし、氏政と氏直の降伏を勧告しました。

しかし氏政はこの後に及んでも、「私は父祖の業を継いで、関東八州の主となった。武をもってこれを失うのは遺憾ではない。ただ、戦わずして降るべきではない」と述べ、降伏を拒んでいます。

「戦わずして」と言っても、北条氏が城に籠もっているから小田原では積極的に戦っていないだけであり、現実には北条氏は圧倒的な劣勢に置かれ、事実上、敗北していました。

氏政はつまるところ、現実をありのままに見つめる勇気を持たない人だったのでしょう。

それでも関東で勢力を伸ばせたのは、既に北条の勢力が盤石となり、関東では北条に対抗できる強敵が存在していなかったからだと思われます。

氏政の兄弟たちにしても、それぞれに能力のある人物たちでしたが、いずれも関東という一地方において、格下の大名たちを相手に領地を削り取ることはできても、秀吉のような強大な勢力を相手にして、どのように立ち回れば北条氏が生き残れるかという、方策を練ることができるほどの見識は持っていませんでした。

氏規だけは見識を備えていましたが、彼は五男で、上に氏政、氏照、氏邦らの兄たちがおり、このために北条氏における発言力はそれほど大きくなく、全体の方針を決定するほどの影響力はなかったのです。

先代の氏康は、現実をありのままに見つめることができ、危機にも柔軟に対処できる名将でしたが、一代で当主の品が下がってしまったことから、氏政に対しては、厳しい評価が下されがちになっています。

氏直の出奔

こうして北条氏が追い詰められる中、氏政はなおも降伏を受け入れませんでしたが、氏直は違っていました。

氏直は城内が疑心暗鬼のるつぼとなり、もはや抵抗が不可能となった現実を理解しています。

しかし、こちらも氏政と同じく、世間知らずな人物であることには変わりがありませんでした。

氏直はなおも抗戦を主張する父・氏政に背を向け、7月5日に小田原城を出奔し、舅である家康に降伏を申し入れています。

そして自分の命と引き換えに、城兵たちの助命を嘆願しました。

家康を頼れば、自分たちにいいように取り計らってくれるだろうと、期待したのでしょう。

しかし家康は、むしろ舅と婿の関係であるからこそ、北条氏のために働くのではないかと秀吉に疑われるのを避けるため、氏直と関わろうとしませんでした。

家康はすぐに滝川雄利に連絡し、氏直を引き渡してその処遇を任せます。

氏直の行動はいかにも稚拙であり、無策でした。

降伏をするにしても、事前に条件の話し合いくらいはするべきで、そうすれば北条氏は日本のどこかで、10万石や20万石程度の領地は保持することができたでしょう。

しかし、そうした交渉を何もせずに、当主本人がいきなり無条件で投降してしまったため、後は秀吉が好き勝手に、北条氏を料理できるようになったのです。

言わば氏直の降伏は、羊が自ら、狼の口の中に飛び込むような行いでした。

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