北条氏政と氏直が、小田原征伐で豊臣秀吉に滅ぼされたワケ

鉢形城の攻略

さらに五月になると、協力を約束した政繁を先導役として、武蔵の北部に入り、鉢形はちがた城の攻略に取りかかります。

鉢形城は関東の中心に位置し、関東平野全体の向背にも影響を及ぼすほどの重要な城でした。

ゆえに、秀吉は早く鉢形城を落とすようにとしきりに利家や景勝に催促しており、彼らはなるべく早く軍勢を進ませ、5月中旬には3万の軍勢で包囲します。

この城は氏政の弟・氏邦が3300の兵を率いて守備にあたっていました。

氏邦は関東ではよく知られた武将で、北条氏の重鎮とも言える立場にありました。

それゆえ北条氏もまた、この城を重視していたことがわかります。

氏邦は勇敢な武将で、3万の大軍にもひるまず、果敢に城を打って出て攻撃をしかけ、包囲軍を苦しめました。

秀吉はこれに対し、6月初旬には本多忠勝らも鉢形城に向かわせ、総勢5万という大軍を投入し、何としても攻め落とそうとします。

こうして重囲に陥ると、やがて兵糧が乏しくなり、どこからも救援が来ないことから、城内の士気が低下していきました。

機を見計らい、景勝配下・藤田信吉のぶよしが城中に使者を送って降伏を勧めると、氏邦は兵士たちの助命を条件に、切腹しようとします。

しかし家臣たちがこれを押しとどめ、しきりに降伏を勧めたことで、6月14日には、氏邦はついに城を明け渡すことを決断しました。

氏邦は寺に入って髪をそり落とし、謹慎します。

利家や景勝は氏邦との約束通り、城兵たちに退散することを許し、助命しました。

秀吉は称賛せず

こうして鉢形城を落とした利家と景勝は、小田原に向かい、秀吉に謁見しますが、秀吉は思ったよりも、戦功を称賛してくれませんでした。

秀吉はその夜、側近たちに対し、彼らは数城を攻め落としたが、つねに降伏させてばかりで、敵を怖れさせる働きがないのが物足りない、と述べます。

秀吉は残虐なふるまいを好む人物ではありませんでしたが、戦略上、北条氏に降伏を決断させるためには、いずこかの城を血祭りに上げ、恐怖心を植えつける必要があったのです。

これを聞いた利家たちは、秀吉の意図をくみ取り、次の八王子城攻めでは、厳しい処置を行うことになります。

八王子城攻め

八王子城は武蔵の多摩郡にあり、甲州街道を抑える要衝でした。

ここは氏政の弟・氏照の居城でしたが、当人は小田原に詰めていましたので、家臣の横地吉信よこちよしのぶや、中山家範いえのりといった武将たちが、2千の兵を率いて守備についています。

利家と景勝は1万5千の兵を率い、6月23日から攻撃を開始しました。

この城攻めでは、利家らは容赦のない攻撃を行い、未明から攻撃を開始すると、午後4時には陥落させています。

そして敵兵の首を1千ほど獲得し、捕虜200人を捕らえ、小田原に送っています。

守将の横地は討ち取られ、中山は自害しており、この戦いでは寛大な措置はとりませんでした。

秀吉は自分の意図を理解した利家らを褒め、捕虜をさらし者にして見せつけることで、小田原城内の士気を低下させました。

この時にはもはや、関東で残るのは小田原城とおし城のみとなっており、北条氏が誇った240万石の領地は、大半が秀吉のものとなっていました。

事実上、北条氏は敗北したのだと言えます。

忍城の健闘

こうして秀吉軍は北条軍を圧倒しましたが、健闘をみせたのが、忍城と韮山にらやま城でした。

忍城は成田氏長うじながという小大名の居城で、当主は小田原城に入っていたため、500程度の留守番部隊が城を守っていました。

これに石田三成らが率いる2万3千の別働隊が攻めかかったのですが、数千人の住民たちが城に入り、防戦に協力したため、なかなか攻め落とせませんでした。

もとより忍城は堅城であり、住民たちの士気が盛んだったから、というのもあるのですが、秀吉が水攻めをして落城させよ、と三成らに強要したため、無駄に手数がかかってしまったのです。

しかも水攻めのために堤防を構築した直後に、暴風雨によって堤防が決壊し、水攻めは失敗に終わっています。

こうして時間が無為に過ぎていくうちに、ついに忍城が落ちるよりも先に、小田原城が降伏してしまい、三成らは忍城の攻略に失敗したのでした。

忍城の戦いは、秀吉が北条征伐において唯一、手抜かりをした戦いだったと言えます。

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