北条氏政と氏直が、小田原征伐で豊臣秀吉に滅ぼされたワケ

秀吉に臣従する者が増えていく

秀吉は北条氏だけを相手にしていたわけでなく、この頃には、既に触れた佐竹らの北関東の大名に加えて、東北の大名たちも臣従させていました。

陸奥むつ北部(青森県や岩手県あたり)を支配する南部信直のぶなお、そして出羽(山形県)の最上義光よしあきもまた、秀吉に恭順する姿勢を見せています。

これによって、東北の主だった大名たちもまた秀吉の傘下に入り、残る臣従しない大名は、北条氏と伊達政宗だけになっていました。

こうして北条氏の孤立は深まり、ますます秀吉は有利になったのですが、氏政はそれに気づかず、小田原で安楽な生活を続けています。

北条征伐開戦前の勢力図

猪俣邦憲が真田の城を奪う

そしてこの年の10月になると、秀吉は開戦の大義名分を得ることになりました。

沼田城代になった猪俣邦憲が、真田に残されると決まっていた名胡桃城を襲撃し、これを奪取してしまったのです。

昌幸は速やかに事態を報告し、29日には秀吉の知るところとなります。

これは明確な協約違反であり、北条は秀吉に従わない、と天下に宣言したのと同じ事でした。

猪俣邦憲がこのような暴挙に出たのは、上野の大半を支配したのに、名胡桃だけが漏れているのを悔しく思い、奪ってしまって征服を完了したかったからだ、と言われています。

猪俣は秀吉と氏政の外交など理解していない田舎武者で、いまだに好き勝手に戦える戦乱の世が続いていると認識しており、このために敵から城を奪って何が悪いのかと考え、これを実行したようです。

これには異説もあり、昌幸は沼田城を譲ったことを納得しておらず、北条軍を挑発して攻撃をしかけさせ、秀吉の討伐を引き出そうとした、とも言われています。

また、秀吉自らが開戦の名分を得るために罠をしかけさせたのだ、という説もあります。

真相ははっきりとしていませんが、いずれが正しかったとしても、それは枝葉の問題でしかありません。

重要なのは、北条氏が厚意を受けたにも関わらず、いつまでも秀吉に臣従を決断しなかったので、秀吉はいらだち、ついに北条氏を見限り、討伐する決意を固めていた、という事実の方です。

氏政が上洛を引き延ばし、実行するつもりがなかった以上、名胡桃城の一件がなくとも、秀吉はいずれ理由を見つけて討伐を実施したでしょう。

その証拠に、秀吉は事件が起きる以前の9月に、すでに諸大名に対し、妻子を京都に送るようにと通達していました。

これは妻子を人質とし、北条征伐の際に反乱を起こされないようにするための、事前の準備です。

なので、事件の前からすでに、秀吉は北条氏を攻め滅ぼすつもりだったことがわかります。

こうして意を決した秀吉は「名胡桃城の一件をもって外交交渉を打ち切る」と家康に通告し、北条討伐を実施すると伝えました。

秀吉の意図

秀吉からすれば、既に天下の大半を手中に収めている以上、北条氏を攻め潰すのは、さほどの難事ではありませんでした。

北条氏を外交で降せば、それだけ時間が節約できますし、労力もかかりませんので、それゆえにまずは交渉を行っていたのです。

しかし、北条氏をそのままにしておけば、家康と提携する勢力を温存することになりますので、東日本の統治が不安定になる可能性がありました。

ゆえに、秀吉によってそもそも最善なのは、北条氏を攻め潰してしまうことだったのです。

そして北条氏を滅ぼせば、240万石の領地が新たに手に入るわけで、征伐を行った方が何かと得なのでした。

氏政が意固地になっている間に、秀吉はそのように気を変えてしまい、せっかくの勢力維持の機会を、みすみす失うことになったのです。

手切れを伝える

秀吉が北条征伐を決断した、と知った氏直は、石巻いしのまき康敬やすよしという家臣を京に送り、秀吉に名胡桃城の件を申し開きさせようとします。

しかし秀吉は謁見を許さず、石巻を拘束させました。

そして手切れの文書を作成し、家康を経由して11月14日に、小田原の氏直に届けさせています。

秀吉はこの文書の中で、これまでの自分と北条の外交の経緯を記し「本来なら関東を勝手に占有している北条氏を討伐すべきところ、家康の縁者なので寛大に接して来た」と述べています。

そして北条の希望通りに沼田問題の裁決を行い、北条に2万石の領地を譲り、その上で速やかに上洛すべきことを伝えたものの、これを実行しなかったばかりか、裁定を無視して名胡桃城を奪ったことを責め、それが討伐に至った理由だと説明しています。

これによって、北条氏が不誠実な外交を行ったがゆえに、討伐を受けるのだと誰もが納得し、天下で北条氏に同情を寄せる者は、まったくいなくなりました。

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