諸将と将兵たちを退屈させないようにする
この包囲戦は、銃撃を交わすのが主となっており、大半の将兵たちは城から出る者がいないよう、警戒するくらいしか仕事がなく、ゆえに退屈な戦いとなっていました。
このため、時間が経過すると、秀吉の陣営から脱走兵が出るようになります。
もちろん、秀吉がその状況を見過ごすはずもなく、すぐに手を打っています。
まず諸大名たちに、妻を小田原に呼び寄せるように伝え、自身も側室の淀殿を呼び寄せています。
そして、それぞれに日常を快適に暮らすための屋敷を設けさせ、秀吉自身も茶室や宴会場まで備えた邸宅を築かせました。
秀吉は自ら宴会を主催し、千利休を呼んで茶会を開かせ、能の興行も行わせるなどして接待し、諸大名の士気の低下を防ぎます。
そして兵士たちに対しては、陣営の周囲に歓楽街を築かせることで、いつでも息抜きができるようにしました。
15万もの将兵が集まっていましたので、それを客とする遊女たちが集まり、小屋をかけます。
さらに、米や野菜といった食料はもちろん、京の商人が出張店舗を作って、絹織物などの高級品を商ったり、明や朝鮮、南蛮から仕入れた珍しい物産を取り扱うなどして、賑やかな市場が形成されました。
秀吉は将兵たちに対しても、踊りや音楽、酒などの娯楽を与えることで、惰気が生じて軍勢が崩壊するのを防いでいます。
小田原に帯陣していた武将の中には「もしもここで一生を過ごすことになっても、決して退屈しないだろう」と述べた者までおり、秀吉は仮に1年2年も包囲戦が続こうとも、びくともしない体制を構築したのでした。
こうして、粘っていれば秀吉軍の士気が崩壊して撤退するだろう、という氏政の期待もまた、潰えることになります。
城内の士気
一方で小田原城内も、しばらくの間は士気が盛んな状態が続きました。
夜は角ごとに篝火をともし、昼と変わらない明るい状態を保ち、兵士たちは24時間の交代制で油断なく警備を続け、秀吉がつけいる隙を与えませんでした。
そして非番の時には碁や将棋、双六などで遊び、酒宴や茶会を開いたり、また、連歌の会を催すなどして、こちらも将兵が退屈しないようと娯楽が提供されています。
さらに、事前に潤沢に物資を用意していたため、毎日市が立ち、兵士も非戦闘員も、等しく買い物を楽しみ、飢える者は誰もいなかったと言われています。
北条氏もまた、90年にわたって関東で栄えてきた武家であるだけに、籠城の支度は手慣れたもので、それゆえにしばらくの間は、秀吉の圧迫から持ちこたえました。
小田原城の包囲戦は、根くらべになっていたのだと言えます。
各地の城が陥落する
一方で、小田原以外の地域では、秀吉軍が北条軍を圧倒していました。
本多忠勝らの別働隊は、まず江戸城を接収すると、上総の数十城を落城させ、支配下に置きます。
そして増援を加え、武蔵の要衝・岩槻城にも2万の軍勢で攻めかかり、3日の戦いで2千の守備兵を降して攻略しました。
これが4月22日のことです。
一方、上野に侵入した前田利家ら3万8千の部隊は、北条氏の重臣・大道寺政繁が守る松井田城を攻めています。
この城は東山道の関門となる重要拠点で、岩槻と同じく2千の北条兵が守っていました。
政繁は寡兵でよく攻勢を防ぎましたが、20日間ほどの戦いの末、ついに力つきて降伏し、4月20日に城を明け渡しています。
そして利家らは、引き続き箕輪城などの諸城を攻め落とし、上野を平定しました。
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