包囲と銃撃
秀吉は4月7日に総攻撃を命じ、包囲軍は一斉に銃撃を開始します。
そして旗を振り、兵たちは鬨の声を上げ、進撃しようとする姿勢を見せました。
海上からも、列を整えた軍船から銃撃がなされ、鐘、太鼓を鳴らして陸上に迫ろうとします。
これに対し、城内からも応射がありましたが、結局は、本格的な戦いにはなりませんでした。
小田原城は三重に堀がめぐらされ、その中に石垣と塀が築かれ、矢倉が隙間なく建てられた、非常に堅固な要塞でした。
城中に山をひとつ、すっぽりと入り込ませてしまうほどに広大で、これを開戦したばかりで、まだ士気の高い5万6千の軍勢が守っているのです。
そして軍需物資も豊富に備蓄されているため、無理に力押しをしても、堀を越えようとする間に激しい銃撃を受け、いたずらに損害が増えるのは明らかでした。
秀吉は小田原城を一望できる石垣山に城を築かせつつ、そこから情勢を観察し、これは包囲持久戦によって攻め落とすしかない、と判断します。
戦略の見直し
秀吉は家康と相談し、力押しで一気に小田原城を攻め落とすのはやめ、関東の各地に別働隊を派遣し、北条氏の領国をすべて奪ってしまうことにしました。
そうして小田原城を孤立させ、城内の士気をくじくのが目的です。
元より信濃から上野に、前田利家ら3万8千の部隊を侵攻させていましたので、彼らに上野を接収したら、次は武蔵(埼玉県・東京都)に向かうようにと命じます。
また、家康の重臣・本多忠勝を中心とした1万3千の部隊に、上総(千葉県中部)の攻略を命じました。
そして石田三成ら奉行衆を中心とした2万3千の部隊にも、武蔵の攻略を命じます。
こうして戦いは、関東全域に拡大していきました。
家康と信雄の、謀反の噂
大軍が一ヶ所に集まって戦っていると、様々な噂や憶測が流れ、それによって人の不和が生じがちなものです。
かつて上杉謙信が10万の大軍を率い、小田原城を包囲した際にも、集結した関東諸侯との関係が悪化し、それが原因となって撤退せざるを得なくなりました。
そしてこの時の秀吉の陣営にも、家康と織田信雄が秀吉に謀反を起こすのではないか、という噂が流れていました。
両者はかつて小牧・長久手の戦いで秀吉と敵対した関係にあり、その後は臣従していたものの、機会があれば反旗を翻すのではないかと、危ぶまれていたのです。
この噂は開戦当初よりささやかれており、秀吉は小田原に向かう道中で、家康と信雄と対面すると、刀に手をかけ、「そなたらがわしに謀反を起こそうとしている、という話を聞いた。なら、ここで斬り合って決着をつけようぞ。さあ、かかってくるがよい!」と芝居がかったパフォーマンスを見せました。
これに対し、信雄は顔を赤らめるばかりで何も言えませんでしたが、家康はまったく動じず、「総大将自らが刀をとって戦う姿を見せるとは、出陣の門出に際し、まことに縁起のよいことですな」と如才なく応じ、将兵たちからの喝采を浴びました。
秀吉が噂を打ち消すためにしかけた芝居の意図を、家康はすぐに読み取って対応したのです。
しかしこれだけでは噂は完全にはなくならず、小田原城の包囲が始まってからも、くすぶり続けていました。
このため、秀吉は脇差のみを身につけ、太刀は供に持たせ、ほんの数人を連れただけの身軽な姿で、家康の陣営を訪れます。
そして家康を誘って一緒に信雄の陣営を訪れ、そこで酒宴を開き、楽しく一夜を過ごしました。
その気になれば、家康は秀吉を簡単に殺害できる状況だったわけですが、なにごともなく酒宴が終わったことから、人々は家康の心情を理解し、謀反の噂は完全に消え去りました。
このように、秀吉は人心を制御するための術を心得ており、北条氏の期待通りに、裏切りが発生することはありませんでした。
家康が秀吉を裏切るのは、その死後のことです。
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