北条氏政と氏直が、小田原征伐で豊臣秀吉に滅ぼされたワケ

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家康が調停する

使者たちは氏政の引き延ばしを許さず、上洛を強く求め続けます。

このため氏政の子で、現当主の氏直は、舅である家康に調停を依頼しました。

家康は氏政に対し、秀吉に従って関東の領地を保つようにと勧め、上洛をした方がためになる、と説得します。

家康からしても、自身の立場を保全する上で、北条氏が健在である方が都合がよかったため、この後も終始、北条氏に臣従を勧め続けています。

これを受け、氏政は「では今年の12月に上洛する」と回答せざるを得なくなりました。

しかし氏政は心から同意したわけではなく、この後もずっと引き延ばしを続けています。

本音では、秀吉に従いたくないと、頑固に思い続けていたのでした。

もしもこの時点で氏政が上洛を決断していれば、北条氏は関東の支配者であり続けたでしょう。

秀吉は北条氏に敵意を持っておらず、また怖れてもおらず、おとなしく従うのであれば、特に攻撃をしかける必要はなかったからです。

徳川家康

【北条氏に臣従を勧めた徳川家康】

北条氏規が上洛する

やがて家康が働きかけを続けたことで、北条氏規うじのりが上洛し、秀吉と対面することになりました。

氏規は氏政の弟で、北条氏の外交を担当していた人物です。

少年の頃、今川義元のところに人質として送られていたことがあり、その時代に同じく人質だった家康と、親しくなっていました。

このため、北条氏と徳川氏が同盟を結ぶにあたり、交渉役を務めてこれを成立させています。

とかく関東に籠もりがちで、天下の情勢に鈍い兄たちとは違って、氏規は外に出向くことが多かったため、北条氏の実力を、客観的に捉えられるだけの見識を備えていました。

氏規は上洛すると、8月22日に聚楽第じゅらくだいで秀吉に謁見します。

この席には毛利、島津、大友といった西国の諸大名たちや、公卿たちも列席しており、高い官位を持つ人々が集められていました。

そんな中、氏規は無位無官だったため、それらの高位の人々が居並ぶ中では、自ずと末席に座らざるを得ず、朝廷における北条氏の、低い地位を思い知らされます。

秀吉は氏規から遠い上座に座り、はるかに身分の低い氏規には、黙礼すらしませんでした。

氏規は下座から秀吉に声をかけることもできず、すごすごと退室するはめになってしまいます。

そして宿舎に戻ると、北条の面目を失ってしまったと恥じて意気消沈します。するとそこに秀吉が訪ねてきて、氏規と一対一で話をしました。

秀吉は、「氏規殿は才知も武勇も優れ、傑出した人物だと聞いているが、今日このような目にあったのは、北条氏が朝廷に仕えず、官位を得ることがなかったからだ」と告げます。

「天下の諸侯が朝廷に従い、官位を得て秩序を形成する中で、北条氏だけがこの流れに逆らえば、やがて孤立し、押領している関東の領地を失うことになるだろう。だから氏政殿を上洛させ、朝廷の公認を受けて関東の領地を保った方が、北条氏のためになる」と懇切に教え諭しました。

氏規は秀吉の方から出向いてくれたことに感謝し、説かれたことの意味をよく理解しました。

そして北条氏がこれまで秀吉と外交を行ってこなかったことを謝罪し、今年の12月に氏政が上洛をすると約束します。

このあたりの、落として上げて、相手の心をつかんでしまう手法は、秀吉の十八番でした。

しかし氏規は秀吉に籠絡されきってはおらず、秀吉に沼田問題の調停を依頼し、北条に便宜を図るようにと要請しました。

沼田問題

沼田問題とは、上野こうずけ(群馬県)の沼田をめぐる、北条氏と徳川氏、そして真田氏の係争でした。

北条氏は家康と同盟を結んだ際に、上野を北条のものとし、信濃しなの(長野県)を徳川のものとする、という条件で同意しています。

このため、家康は傘下の真田昌幸まさゆきに対し、領有している沼田を北条氏に明け渡すように、と命じました。

しかし、家康がその代わりとなる領地を保証しなかったため、昌幸は家康から離反し、秀吉の臣下になっています。

これを受け、家康は真田の本拠である上田に、北条氏は沼田に攻めかかりますが、いずれも昌幸の優れた戦術によって撃退されました。

このために、やがて秀吉が調停を行い、昌幸と家康を和睦させています。

これでひとまず、徳川と真田の問題は片づいたのですが、依然として沼田は昌幸のものであり続け、北条氏はそれに不満を抱いていたのでした。

秀吉は「それぞれから事情を聞かなければ判断ができぬ」と言ってとぼけ、氏規に厚遇を与えてから、関東に帰らせました。

そして11月になると、妙音院を再び小田原に遣わし、氏政の上洛を促します。

家康も家臣を送って同じことを告げ、秀吉に会った氏規もまた、上洛するべきだと主張します。

氏規は直接秀吉に会い、聚楽第の壮大さや、秀吉の元に天下の諸侯が集って仕えている様子を目の当たりにし、北条氏の実力では、とても対抗できないことを理解したのでした。

しかし氏政はこれを拒み続け、12月の上洛の約束を反故にしてしまいました。

これまで秀吉は、なるべく北条氏には穏便に接するようにしていました。

ですが、氏政が約束を破ったことにより、北条氏に対する感情が悪化しはじめたと考えられます。

秀吉はこの頃から既に、日本の統一を終えたら、朝鮮半島や中国大陸に侵攻し、海外にも勢力を伸ばそうと計画していました。

ですので、いつまでも北条に手こずらされる状況を、好むはずがなかったのです。

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