秀吉は領地を全て没収し、氏政に切腹を命じる
秀吉は家康と北条氏の処分を話し合い、領地を全て没収した上で、氏直は助命することにし、氏政と氏照兄弟と、重臣の松田憲秀、および大道寺政繁に切腹を命じました。
当主が降伏して身柄を拘束されてしまった以上、これ以上の抵抗は不可能となり、北条氏は開城せざるを得なくなります。
それにしても悲惨だったのは、氏政の境遇でした。
降伏をするにしても、それなりに交渉をしてから実行すれば、氏政が切腹を命じられるようなことにはならなかったでしょう。
交渉をすれば、氏政と氏直を助命し、かわりに重臣が切腹をする、といった条件を得るのは、十分に可能だったからです。
しかし氏直が無条件降伏をしてしまったため、秀吉は北条氏に何でも要求できる状況となり、このために氏政に切腹を命じるという、厳しい措置を取ることができたのでした。
氏直の考え足らずな行動が、父親に死をもたらしたのだと言えます。
助命嘆願がなされる
小田原城の接収がなされる中、氏政の助命を秀吉に願い出る者がおり、しばし話し合いが持たれたようです。
しかし秀吉の心はすでに固まっており、「このたび関東に討ち入ったのは、北条氏を討ち滅ぼそうとしたからだ。それなのに氏政を許せば、前言を偽ることに等しい」と述べ、嘆願を受け入れることはありませんでした。
氏政と氏照は、田村安栖という医師の家に押し込められ、監視下に置かれます。
そして7月11日になると、秀吉は切腹の実行を命じました。
家康は井伊直政や榊原康政といった重臣たちに見届け人の役を命じ、1500人の兵士に警備をさせます。
氏政と氏照は気配を察し「どうやら自害の催促が来たようですな。しばらく沐浴して身を清める猶予を与えてくだされ」と伝え、身支度を整えました。
そして、辞世の句を詠み、自刃しています。
「雨雲の 覆へる月も 胸の霧も 払いにけりな 秋の夕風」
と、氏政は死を前にして、静謐な心情を詠み上げました。
2人の介錯は、韮山城から小田原城に戻っていた氏規が行っています。
氏規は兄たちの首を打ち落としてから、その刀を返し、自分の腹を斬ろうとしました。
しかし井伊直政がこれに気づいて走り寄り、抱き留めて刀を奪い、命を助けています。
氏規はこの結果を見通していただけに、兄たちの首を打ち落とすはめになったことを、無念に感じていたことでしょう。
秀吉は氏政と氏照の首級を京都の一条戻橋に晒し、大道寺政繁の首は、江戸の桜田にさらしました。
そして7月12日には氏直に対し、高野山に移って謹慎するようにと命じます。
こうして北条氏は、あえなく滅亡しました。
氏直を取り立てる予定があったと言われる
氏直は7月20日に小田原を出発しましたが、この時に叔父の氏邦、氏規、弟の氏房ら、一族がみな氏直に従い、高野山に向かっています。
そして家臣団の中から30人と、兵卒300名が供をしました。
このあたりの様子を見るに、敗戦してもなお、北条氏の結束は固かったようです。
秀吉は500人扶持を与え、彼らの生活を支援しています。
また、山上は寒さが厳しかろうと、11月には山麓への移住を認めました。
このあたりの対応を見るに、秀吉は氏直の処遇には配慮しており、家康の婿だったこともあって、粗略に扱うつもりはなかったようです。
やがては罪を許して1万石の大名とし、さらに時期をみて、中国地方で一ヶ国を与える予定があったと言われています。
しかし氏直は間もなく病にかかり、29才で死去してしまいました。
こうして北条氏は勢力を取り戻す機会を得られぬまま、その嫡流が絶えています。
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