北条氏政と氏直が、小田原征伐で豊臣秀吉に滅ぼされたワケ

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板部岡江雪斎を上洛させる

結局、約束の12月には何も動きがありませんでしたが、にも関わらず氏政は、翌1589年の1月に、家臣の板部岡いたべおか江雪斎こうせっさいを上洛させ、沼田問題の解決を秀吉に促しました。

秀吉からすれば、この時点で既に腹立たしい事態だったはずですが、まだ北条氏に対し、懇切に対応しています。

江雪斎の申し分を詳しく聞き取り「沼田3万石のうち、3分の2は北条に与える。残る3分の1と名胡桃なぐるみ城は、真田氏の代々の墳墓がある場所なので、そのまま真田に残す」という裁定を下しました。

そして真田が失う2万石は、家康がかわりの領地を与えること、としています。

これは北条氏に対して有利な裁定であり、氏政の上洛を実現するために、秀吉が好意を見せたのだと言えます。

本来、沼田は北条氏が自力で獲得するべき土地だったのですが、昌幸にいくら挑んでも勝てなかったため、秀吉に頼んで譲ってもらった、という流れだったからです。

秀吉は富田一白を信濃の上田に遣わし、昌幸を諭して沼田の分割を受け入れさせました。

こうしてついに北条氏は、沼田を手に入れています。

そして北条氏邦うじくにが統治を担当し、氏邦は家臣の猪俣いのまた邦憲くにのりを沼田城代に任命しました。

氏邦もまた氏政の弟で、関東諸国の攻略を担当していた、優れた武人です。

秀吉はこうして沼田問題を片づけると「氏政、氏直親子は速やかに上洛せよ」と江雪斎に伝えます。

秀吉がここまでしたのですから、氏政は返礼のためにも、この時点で上洛するべきなのが筋でした。

江雪斎が小田原に戻って氏直に首尾を伝えると、氏直は「今年の12月上旬、父・氏政が上洛します」という書面を秀吉に差し出しています。

これを受け、秀吉は少なからず感情を害されたと思われます。

と言うのも、秀吉が裁決をしたのは1月であり、速やかに上洛せよ、と伝えたにも関わらず、年末にならないと上洛しない、と伝えてきたからです。

沼田を譲ってやったにも関わらず、まだ上洛しないつもりなのかと秀吉は受け取り、どうやら北条は臣従するつもりがないようだ、と気がつきます。

おそらく12月まで待っても、前年と同じく、氏政は何かしら理由をつけ、上洛をしなかったでしょう。

秀吉は表に出さぬまでも、密かにこの頃から、北条を討伐して攻め滅ぼしてくれようと、考え始めていたと思われます。

これまでの経緯からして、秀吉が北条氏に愛想をつかしたとしても、まったく無理からぬことでした。

氏政は秀吉なにするものぞと構え、侮っており、コケにされた秀吉はそれを察知し、外交で半年以上を無駄にさせられたことも含めて、心中で怒りを発していたことでしょう。

こうして氏政は、北条氏を無事に存続させるための最後の機会を失い、ついにその滅亡を招き寄せることになります。

氏政は無能だったのか?

北条氏を滅ぼした直接の原因を作ったのは、これまで見てきた通り、前当主の氏政でした。

氏政は既に隠居していたとは言え、嫡男の氏直はまだ若く、全てを担うには力不足だったため、権力の大部分を握った状態にありました。

それゆえ、秀吉も重ねて氏政の上洛を求めたのです。

氏政は学があり、教養を備えた人物で、弟たちと協力して関東制覇を推し進め、相応に実績を残しています。

ゆえに、決して無能ではありませんでした。

しかし、氏政が当主になった頃、すでに北条氏は3代を経て、150万石の領地を持つ関東最大の勢力となっていました。

このため、何の苦労も知らずに育った氏政には、自然と世間知らずのおぼっちゃん体質が染みついてしまっていたことは、否めないと思われます。

氏政は天下の情勢を知らず、北条氏の実力を客観的に見る目を養うこともなく、もしも秀吉が攻めてきたところで、天下の険たる箱根で防げるはずだ、と信じ切っていました。

そして戦いになれば、姻戚たる家康は自分に味方するだろうし、伊達もいるのだから、そう簡単に敗れることもあるまい、と楽観していました。

しかし実際には、秀吉の実力も影響力も、そんなに脆弱なものではなく、北条氏は秀吉の攻撃の前に、あえなく滅亡することになります。

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