北条氏政と氏直が、小田原征伐で豊臣秀吉に滅ぼされたワケ

家康が忠告する

家康は秀吉の手切れ書を送付すると、それとは別に、氏政と氏直に書を送り、外交の不実をなじり、速やかに謝罪のために上洛するようにと促しました。

この時点では、まだぎりぎりで、討伐を回避できる機会が残されていたことになります。

しかし氏政も氏直も危機感がなく、さらに秀吉を怒らせる行動を取りました。

秀吉は先に妙音院という者を、北条氏との外交の使者にしていましたが、彼が北条氏を擁護する発言をし、内通している気配を示したため、沼津に追放し、拘禁していました。

氏直はこの妙音院を密かに招くと、妙音院は拘禁所を抜け出し、小田原に向かおうとします。

しかし追跡を受け、途上で捕縛され、連れ戻されました。

秀吉が罪人として拘束している者を、勝手に抜け出させて話をしようとしたわけで、氏直もまた、秀吉を軽く見ていたことがわかります。

氏直の弁解

手切れ状を受け取った氏直は、秀吉に弁解の書状を送っています。

しかしその内容は的外れなもので、秀吉の討伐の決意を覆すにはいたりませんでした。

「こうして名胡桃で問題が起き、秀吉は腹を立てているだろうから、父・氏政が上洛したら、拘束されて領地を別の土地に移されてしまうのではないかという噂が持ち上がっている。かつて家康が上洛した際には、妹を嫁がせ、母親を三河に送ったのに、こちらに対しては使者と書状を送るだけで上洛を促すのは、失敬なのではないか。安心して上洛ができるよう、配慮してほしい」というのが、氏直からの書状の内容でした。

この手紙から、北条氏が情勢を全く理解していなかったことがわかります。

既に述べた通り、秀吉が家康に大幅に譲歩をしたのは、まだ秀吉には東西に敵が残っており、勢力が固まりきっていなかったからです。

しかしこの時点では既に強固な支配権を確立しており、北条氏に譲歩をする必要はまったくないのでした。

ゆえに、かつての家康と同等の待遇を求めるのは不可能であり、北条氏には現実が見えていなかったことが、この文書によって証明されています。

また、名胡桃の件は真田に非があったとして糾弾し、秀吉の矛先をそらそうともしています。

それでいて謝罪は一切せず、討伐を回避しようと努力した形跡はありません。

北条氏直

【北条氏直の肖像画】

開戦準備

こうして秀吉に書状を送る一方で、北条氏は戦闘の準備を開始しています。

小田原城の西にあり、箱根の要衝である山中城を修築し、一方では大筒20挺を鋳造させています。

しかしこの時点ではまだ、秀吉は本当には攻めてはこないだろうと思い込んでおり、万が一に備えよう、という程度の気分だったようです。

氏政は秀吉からの手切れの文書を受け取った際、これを床に放り出し、弟の氏照うじてるに対し、「使者を送り、文書を送るだけで我らを恫喝し、屈服させようとは横着なことだ。もしも関東が欲しいなら兵力をもって取るがいい。しかし秀吉が本当に来たら、平維盛これもりのように、水鳥の羽音を聞いただけで潰走することだろう」と述べています。

このことから、秀吉は攻めてこないだろうし、攻めてきたところで勝てる、と信じていたことがわかります。

しかし氏政の予想に反し、家康は12月10日に入京して秀吉と対面し、北条攻めの軍議に参加しました。

これを聞いた氏政は、秀吉が本気だということにようやく気がつき、ならば要塞を頼りにこれを防ごうと思い、小田原城の修築と拡張の工事を開始します。

そして領内に総動員をかけ、武士でない者も武器を備えて命令を待つように、と通達しています。

氏政の余裕

北条氏の家臣たちの中でも、情勢を理解している者は、これは北条氏の絶対絶命の危機ではないかと察し、しきりに嘆息しました。

しかし氏政は余裕を見せ、家臣たちに次のように語っています。

「この小田原は京からはるかに遠く、秀吉が軽々しく兵馬を動かしたとしても、何も怖れることはない。我らには東海道第一の天険である箱根があり、その他にも長年、手間をかけて構築してきた要害がある。その上、武に熟練した関東武士が知勇をふるえば、100騎をもって、上方の1000騎に相当するだろう。かつて源平合戦において、平維盛は関東武士を怖れ、水鳥の羽音を聞いただけで逃げ散ってしまった。近くは武田信玄や上杉謙信ですらも、この小田原城を攻め落とすことはできなかった。そして兵糧や矢玉も豊富にあるのだから、たとえ5年10年でも籠城できる。防戦一途の覚悟をもって立て籠もれば、上方の兵は士気をくじかれ、兵糧不足となって脱落する者が増え、秀吉もどうすることができなくなるだろう」

その席に居合わせた者たちは、「もっともなことです」と口先では言ったものの、内心では不安を感じていた者が多かった、ということです。

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