北条氏政と氏直が、小田原征伐で豊臣秀吉に滅ぼされたワケ

物資の充実

そして秀吉は、長束なつか正家まさいえという能吏を奉行に任命し、米20万石を調達させ、それを駿河の江尻と清水の港に運ばせました。

さらに黄金1万枚を用い、馬の飼料や矢玉といった軍需物資を買い整えさせ、これを小田原の付近に輸送させます。

こうした秀吉の措置の結果、戦闘が行われた小田原の付近も、その他の平穏な地域も、物価がまったく変わらなかったため、家康の家臣はもっぱら現地で物資を調達した、という話が残っています。

通常、戦闘をしている地域では物資が不足し、価格が高騰するものですが、秀吉が大領の物資を輸送させたことで、不足が起きず、相場が平穏な地域と変わらなかったのです。

これにより、北条氏が期待した、秀吉が物資不足になって撤退するという事態は、決して発生しないのでした。

山中城を一日で攻め落とす

北条氏が防衛拠点として頼みにしたのが、箱根にある山中城でした。

氏政はここを4千の兵で守らせ、秀吉の侵攻を食い止めようとします。

山中城は小田原城の西側を守る拠点で、ここを落とせば、小田原城にすぐに攻め込める状況になります。

このため、氏政は山中城を改築して防御力を高め、一族の北条氏勝を援軍として送り、守りを固めさせています。

これに対し、秀吉は甥の羽柴秀次ひでつぐ、家康、堀秀政ひでまさらが率いる6万8千の大軍で攻めかからせました。

17倍もの戦力差があったことから、山中城は一日で落城しています。

この結果、箱根で秀吉の攻撃を防ぐ、という北条氏の計画は、瞬時に破綻することになりました。

そもそも山中城はさほど規模の大きな城塞ではなく、数万の大軍を防ぐ力はありません。

このため、山中城の支援に派遣された武将は、「殿は我らのような、長年に渡って北条に尽くしてきた武将を使い捨てにするつもりなのか」と言って嘆いた、という話が残っています。

多少の増援を送ったところで、秀吉の大軍を相手に長く持ちこたえられるはずがなく、防御を担当すれば無為に戦死する可能性が高いと、この武将は知っていたのでした。

つまるところ、氏政のもくろみはすべて手前勝手な願望でしかなく、自軍の城の防御力すら理解しておらず、現実が見えていなかったのだと言えます。

氏政は「箱根は防御が固いから守り切れるはずだ」という固定観念に捕らわれて物事を判断しており、「現実に秀吉の進軍を食い止める役割を担う山中城は、どの程度の城なのか」という実情を把握していなかったのです。

しかしようやく、本拠である小田原城の防衛戦がはじまると、氏政の期待通り、秀吉の進撃を食い止めることができました。

小田原城の包囲戦

小田原城には氏政・氏直親子はもちろんのこと、重臣たちと、そして北条に従う関東の諸大名たちも一緒に籠城していました。

これは北条氏が、大名たちに小田原城に集結するようにと命じていたためです。

そうして当主を小田原に置いて人質にすることで、各地の城が寝返られないように仕向けたのでした。

そして、当主が健在であれば、城が落ちても後で取り戻せば、その大名家を復興させられるわけで、なかなかに巧みな策だったと言えます。

こうして小田原に集まったのは5万6千という大軍で、事前に防御力も高められていたことから、さしもの秀吉軍といえど、短期間では攻め落とせませんでした。

包囲戦が始まったのは、1590年の4月3日です。

まず城の東には、徳川家康が3万を率いて陣取ります。

そして北には羽柴秀次と羽柴秀勝ひでかつの2万、南には堀秀政ら1万8千、そして西には秀吉の本隊3万2千が配置され、おおよそ10万の軍勢が小田原城の周辺に集いました。

後に別働隊が合流することで、15万の軍勢で包囲することになります。

この包囲陣の厚みは2kmにも及んだと言われており、もはや中から出ることも、外から入ることも不可能となりました。

そして海上には数千の軍船が配備され、こちらも万全の封鎖態勢が敷かれました。

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