呂布奉先 飛将と呼ばれ、丁原や董卓を裏切った最強武将の生涯

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呂布りょふは後漢の末期において、抜群の武力を誇った武将です。

騎兵を率いて戦えば、向かうところ敵なしであり、「飛将ひしょう」と呼ばれて称賛を受けました。

一方で、節操のない性格の持ち主で、丁原ていげん董卓とうたくら、次々と主君を裏切って殺害し、そのたびに地位を高めていきました。

そしてえん州やじょ州を占拠し、群雄のひとりにまで成り上がります。

しかし裏切りを繰り返したことで人々からの信頼を失い、やがて曹操そうそうに討たれて滅亡しました。

この文章では、そんな呂布の生涯を書いてみます。


【呂布の肖像画】

并州に生まれる

呂布はあざな奉先ほうせんといい、五原郡の九原県で誕生しました。

生年は不明となっています。

五原郡は、現代では中国の内モンゴル自治区にあたります。

呂布は弓術と馬術に優れていましたが、出身地からして、北方の騎馬民族の血を引いていたのではないかと思われます。

丁原に重用される

呂布はやがてへい州の役所に出仕し、その勇猛さを認められるようになりました。

并州は異民族と境を接する地域にあり、抗争が絶えなかったことから、武勇に秀でた人材が、常に求められていました。

呂布はその中で頭角を現し、刺史しし(長官)の丁原に気に入られ、主簿に任命されています。

主簿は帳簿の管理や公文書の作成などの事務を司る役目でしたので、呂布は意外な印象を受けますが、事務処理能力も備えていたようです。

丁原は呂布を信頼し、常に親愛にあふれた態度を見せていました。

丁原に従って都に赴く

やがて189年になると、時の皇帝・霊帝が崩御し、朝廷では大将軍の何進かしんと、宦官かんがんたちとの間で権力争いが発生します。

その過程で、丁原は軍勢を率いて首都・洛陽らくように上るようにと何進に命じられました。

これは何進が、地方に駐屯する軍勢を都の周囲に呼び寄せ、自分の勢力の強大さを見せつけようと考えたからでした。

そうして宮廷からの支持を集め、宦官勢力を駆逐することをもくろんだのです。

丁原はそれを受け、呂布をつれて洛陽に入ると、執金吾しつきんご(都の警備長官)という地位を与えられます。

こうして丁原は身分を高めましたが、何進は他に、涼州で軍勢を蓄えていた、董卓をも都に呼び寄せていました。

董卓に誘われ、丁原を殺害する

やがて何進は宮中に参内した際に、宦官たちの意を受けた兵士たちに、暗殺されてしまいます。

すると都は混乱に陥り、それに乗じて董卓は権力の奪取を計画しました。

まず董卓は、何進の弟・何苗かびょうを殺害して、何氏の兵権を奪いとり、軍事力を増大させます。

こうなると、董卓にとって残る邪魔者は、并州の兵を引きつれた丁原のみとなりました。

なので董卓は丁原をも葬ることにします。

董卓は呂布に目をつけ、好待遇を与えることを約束して、丁原を殺害するようにとそそのかします。

董卓の働きかけを受けた呂布は、それまでの恩義も忘れ、あっさりと丁原を殺害してしまいました。

こうして董卓は都に滞在するすべての軍勢を掌握し、辺境の将軍から、一気に最高権力者にまで登り詰めたのでした。

董卓はその成功に、おおいに貢献した呂布を称賛し、騎都尉きとい(中級指揮官)の地位を与えます。

そして呂布に信頼を寄せ、親子の契りを結びました。

呂布は丁原にも信頼されていましたが、目上の者に取り入るのが得意だったという一面も、持っていたようです。

飛将と呼ばれる

呂布は人並み外れた腕力を持ち、そのうえ馬術と弓術を得意としていました。

このため人々は、呂布を「飛将ひしょう」と呼ぶようになります。

飛将とは、前漢の名将・李広りこうの異名でしたが、李広は呂布と同じく、馬術と弓術に優れていました。

李広はその能力を活かし、匈奴という騎馬民族の討伐において活躍しています。

そして彼らから「前漢の飛将軍」と呼ばれて恐れられた、という故事がありました。

呂布はその李広になぞらえられ、武勇を称賛されたのでした。

呂布は董卓の元で、敵対勢力との戦いに活躍し、昇進して中郎将ちゅうろうしょう(上級指揮官)になり、都亭候という爵位まで得ています。

丁原に続いて、董卓からも厚遇されていたのだと言えます。

呂布にとっては、ひとまず主の乗り換えは、正解だったことになりました。

しかしながら、やがて董卓は反抗勢力に押され気味となり、洛陽を廃墟に変えてから、西にある長安に遷都しました。

呂布もこれに従って、長安に移動しています。

董卓の護衛も務めるが、やがて関係が悪化する

董卓は横暴な性格で、人との間にいさかいを起こすことが多く、このために、自分の命が狙われていることを知っていました。

ゆえに、腕の立つ呂布を自分の護衛にして、呂布が出陣をしていない時には、常に身辺警護をさせています。

呂布と親子の契りを結んだのは、呂布が自分を裏切らないようにするためでもあったのでしょう。

警護をしている者に裏切られたら、一巻の終わりだからです。

しかし董卓は生来、気性が激しく、そのうえ短気で、後先を考えずに人に怒りをぶつけてしまうところがありました。

このため、董卓はあるとき、ちょっとしたことで腹を立て、ほこで呂布を殴ろうとします。

呂布は敏捷に身をかわし、すぐに董卓に謝罪をしたので、その場はおさまりました。

しかし呂布はこのことがあってから、董卓に対し、秘かに恨みを抱くようになりました。

【次のページに続く▼】