諸葛亮孔明 漢王朝の復興を目指し、魏に戦いを挑んだ蜀の宰相

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北伐の開始

諸葛亮はそれから漢中に駐屯し、本格的に攻撃準備を開始しました。

そして228年の春になると、諸葛亮は斜谷やこく道から出て、を奪うと宣伝します。

それから趙雲と鄧芝をおとりの部隊として、箕谷きこくに陣を構えさせました。

そちらの方面に敵の目を引きつける間に、涼州の中央部から西側の地域を抑えようというのが、諸葛亮の戦略でした。

初動は成功する

魏の大将軍・曹真そうしんは諸葛亮の陽動に釣られ、趙雲らを防ぎにかかります。

その間に諸葛亮は諸軍を率いて祁山きざんを攻撃しましたが、その軍陣は整然とし、賞罰は厳粛で、命令は明確でした。

蜀軍が進軍すると、涼州の南安・天水てんすい・安定の三郡が魏に背いて諸葛亮に呼応し、関中は大いに動揺します。

これは、魏は劉備がいなくなった以上、蜀の側から攻撃をしかけてくるとは、まったく予測していなかったからでした。

諸葛亮はこの時はまだ、軍勢を強化し、遠征をしかけてくるほどの人物だとは、世間から認知されていなかったのです。

北伐1

馬謖を先鋒とする

魏はあわてふためき、魏の皇帝である曹叡そうえいは自ら長安まで出向き、将軍の張郃に命じて諸葛亮を防がせることにしました。

諸葛亮は本隊を予定通りに、安定した速度で行軍させ、一方で馬謖を先鋒として街亭がいていに送り込み、進軍拠点を確保させようとします。

しかし馬謖には実戦経験が乏しかったので、より経験が豊富な魏延や呉壱ごいつを推薦する者の方が多くなりました。

諸葛亮はこれを退け、あえて馬謖を抜擢したのですが、これが大きな失敗を招いてしまいます。

馬謖が撃破される

諸葛亮は馬謖に対し、街道沿いに陣を構え、張郃を防ぐようにと命じました。

しかし馬謖は独断で命令を違え、山の上に陣を構えてしまいます。

そして命令が煩雑だったので、将兵たちは混乱に陥っていきました。

副将の王平がこれを諫めましたが、馬謖は耳を貸さず、自ら死地に飛びこんでしまいます。

張郃は優れた武将であり、このような過ちを見逃すことはありませんでした。

張郃に山を包囲されると、水の確保が難しくなった馬謖軍は窮地に陥り、士気が低下します。

そこに攻撃を受けると、馬謖軍はあえなく撃破され、街亭を失って敗走に追い込まれました。

全軍撤退する

拠点を失い、魏に占拠されたことで、蜀軍はこれ以上の進軍をするのが、大変に困難となりました。

このため、諸葛亮は西県の千余軒の住民を蜀に移住させたことだけを戦果として、全軍を撤退させざるを得なくなります。

また、天水の姜維きょういらが降伏してきていたので、彼らを連れ帰りました。

大軍を動員し、陽動を成功させ、魏の虚をついたわりに成果は乏しく、最初の北伐は失敗に終わったのだと言えます。

諸葛亮と馬謖の関係

馬謖はかねてより、諸葛亮が目をかけていた人物でした。

人並み外れた才能があり、机上で作戦を考えさせると、冴えた意見を言うことができたので、諸葛亮は馬謖に、軍事の才能があると見なしていたのです。

それが抜擢の理由だったのですが、馬謖は指揮能力が乏しく、いきなり先鋒を任せるには力不足だったのでした。

劉備は生前に、「馬謖は言葉が実質よりも先行するから、重要な仕事をさせてはいけない」と戒めていたのですが、諸葛亮はこの点を見抜けていなかったようです。

この頃には、諸葛亮を慕っていた馬良(馬謖の兄)が死去しており、それもあって、残された弟の馬謖に対し過剰に目をかけ、期待するところがあったのかもしれません。

このような事情によって、諸葛亮は好機を逸してしまいます。

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