本隊の出撃
このような手痛い家臣の失敗もありましたが、やがて秀吉は20万の大軍を動員し、自分が10万を率いて九州の西側を攻め、残る10万を秀長に任せて九州の東側に攻め入らせました。
これに対し、島津軍の総兵力は5万程度のものであり、豊臣軍は各地で島津軍を圧倒します。
日向(宮崎県)の根白坂で激戦が行われましたが、小早川隆景や黒田官兵衛の活躍によって秀長軍が勝利し、島津氏の戦意をくじいています。
1587年の3月ごろに戦闘が始まり、翌4月には、早くも島津義久は和睦を秀吉に申し入れて来ました。
この頃になると豊臣軍の実力は他の勢力を圧倒しており、数の力で押し込んで短期間で戦役を集結させることが繰り返されています。
5月には和睦が成立し、義久は出家して降伏を申し入れたため、薩摩と大隅の二ヶ国が安堵されました。
こうして九州も秀吉の支配下に入り、西日本は完全に統一されたことになります。
戦後処理
戦いが終わると、肥後(熊本県)50万石を佐々成政に与え、小早川隆景に筑前・筑後(福岡県西部)37万石を、黒田官兵衛に豊前(福岡県東部)12万石を与えるなどして、大名たちの配置換えを行います。
秀吉は小早川隆景の統治能力を高く評価しており、西国の抑えを委ねる意向を持っていました。
黒田官兵衛はこれまでの功績の割には与えられた領土が少なかったのですが、秀吉は官兵衛の能力は高く評価していたものの、どこか信用しきれないものがあると感じていたようです。
後に他の家臣に「官兵衛殿の領地が少なすぎるのでは?」と問われ「官兵衛に100万石も与えたら天下を取られてしまう」と答えたという逸話が残っています。
官兵衛は「人に媚びず、富貴を望まず」といった言葉を残しており、秀吉に協力はしていたものの、どこか心服できないものがあると、こちらも感じていたのかもしれません。
秀吉はこれらの他に豊臣家の直轄の領地である「蔵入地」を各地に設置し、後に行う唐入りの準備を初めていきます。
秀吉はこの頃にはすでに海外に目を向けており、中国大陸の帝国・明を支配下に置くことすらも計画していました。
博多の復興
秀吉は大坂に戻る前に、荒れ果てていた博多に立ち寄り、その復興事業を行うようにと指示を出します。
この時に石田三成や小西行長といった子飼いの家臣たちを奉行に任じ、直轄地としての整備を進めていきます。
これもまた唐入りの準備の一貫であり、朝鮮や中国に進出する上で、軍需物資の流通を円滑にする意図があったと思われます。
この頃から朝鮮や琉球との接触を開始しており、海外進出に必要な外交の下地作りも試みています。
キリスト教の禁制
福岡の整備を命じた後、秀吉はキリスト教徒に寄進され、その領土のようになっていた長崎にも立ち寄ります。
そこで多くの日本人が奴隷として海外に売られていく様を見て、さらにキリスト教徒たちが武装をしているのも知ります。
長崎の領土化、および住民の奴隷化と武装から、秀吉はキリスト教徒たちは単なる宗教団体ではなさそうだと警戒心を抱くようになり、この年にバテレン(神父)追放令を出しています。
この時はまだキリスト教の信仰を全面的に禁止したわけではなく、大名や武将など、一定以上の身分の者の信仰を禁じるにとどまりました。
支配階級が信仰しなければ、そこまで問題にはならないだろうと判断していたようです。
熱心なキリスト教徒であった摂津の大名・高山右近はこの命令に服さず、領地を秀吉に没収されています。
高山右近は後にフィリピンに亡命し、キリスト教徒であることを堅持して大名の身分を捨てたことが知られ、熱烈な歓迎を受けることになりました。
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