但馬を攻略する
1569年になると、中国地方を支配する毛利元就(もとなり)から、信長に支援要請が届きます。
毛利元就はこの頃、北九州を支配する大友宗麟と戦っていました。
その隙をつき、毛利氏と敵対する尼子氏の残党が山陰地方で攻勢に出ていて、これに元就は悩まされていました。
この尼子氏を但馬(兵庫県北東部)の大名・山名祐豊が支援しており、これを攻撃して支援を断って欲しい、というのがその要請の内容でした。
信長はこの要請を但馬に勢力を伸ばすためのよい機会になると見て、2万の軍を秀吉に預け、攻略を命じます。
秀吉は但馬に赴くと、わずか10日で18の城を攻め落とすという大戦果をあげ、山名祐豊を但馬から追い出しました。
秀吉は城攻めを得意とする武将でしたが、多くの軍勢を率いるようなったこの時期から、その才能が前面に出て来ています。
但馬には生野銀山という鉱山があり、経済的に重要な意味を持つ土地でした。
秀吉の働きによってこの銀山が織田氏が支配するようになり、財政が豊かになっています。
この頃にはすでに秀吉は2万という大軍を預けられていたことになりますが、他にこの時期にこれほどの大軍を率いた武将はおらず、信長からの信頼が厚かったことがうかがえます。
箕作城での活躍から、但馬の攻略も短期間で成し遂げるだろうと期待されたのでしょう。
この頃に信長の勢力を観察していた毛利氏の外交官・安国寺恵瓊(えけい)は、「信長の家臣の中では、秀吉こそが特に優れた注目すべき者だ」という内容の手紙を毛利氏あてに送っています。
金ヶ崎で殿を務める
1570年になると、信長は上洛命令に従わない越前(福井県)の大名・朝倉義景の討伐を実行します。
そして越前口に攻め込み、朝倉方の前線基地である金ヶ崎城を攻略するなど、順調に作戦が進みました。
しかしその時、信長と同盟を結んでいた北近江の浅井長政が寝返り、織田軍を攻撃するべく北上しているという知らせが届きます。
浅井長政は信長の妹・お市の方と結婚をしており、信長の義弟になっていた人物でした。
このため、信長から厚く信頼を受けていたのですが、これを裏切ったことになります。
浅井氏はかつて滅亡の危機に瀕していた際に、朝倉氏の支援によってそれを切り抜けた過去があり、このため、信長による朝倉氏の攻撃を容認しなかったのです。
こうして信長は北の朝倉氏と南の浅井氏から挟撃される状況に置かれます。
信長はこの時に秀吉と明智光秀、摂津守護の池田勝正らに殿(最後尾の防衛役)を命じ、自身は10名ほどの供を連れて戦場を脱出しました。
秀吉は数倍の朝倉・浅井軍の追撃を受けることになりますが、明智光秀らと連携してこれを撃退し、織田軍に大きな損害が出ることを防ぎました。
秀吉が無事に京都に帰還すると、信長は秀吉の働きを褒め称え、多くの黄金を褒美として与えています。
こうして秀吉は織田軍の危機を救うという、大きな功績をあげました。
秀吉のこうした献身ぶりから、家中での評価も高まっていったものと思われます。
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