明軍の参戦と戦線の停滞
その後も日本軍は朝鮮半島の北上を続け、各地で朝鮮軍を破って進撃を続けます。
しかし1592年の7月になると、明の名将・李如松(りじょしょう)が4万3000の兵を率いて朝鮮にやってきます。
李如松は朝鮮北部の平壌で小西行長隊と会敵し、フランキ砲などの豊富な火力をもって攻撃を開始します。
小西隊も火縄銃を用いて対抗しますが、兵力で劣っていたために間もなく撤退しました。
そして李如松の精兵の追撃を受け、小西隊は1500の損害を出してしまいます。
この戦役において、日本軍は初めて大きな敗北を喫したことになります。
また、各地で朝鮮の民衆による抵抗活動が盛んになるなどしており、日本軍の快進撃は終わり、戦況が停滞していくことになります。
さらに漢城に築いていた日本軍の食料庫が明軍に焼き払われ、窮地に陥った日本軍は明軍との和睦を模索するようになります。
和睦交渉
1593年の3月には明の使者・沈惟敬(ちんいけい)と小西行長、加藤清正の三者で会談が行われ、日本軍が朝鮮の王子を返還し、釜山まで後退することなどを条件に休戦の合意が成立します。
沈惟敬は部下を明の皇帝の勅使だと偽って日本に派遣し、この偽の使者はやがて名護屋城で秀吉と対面します。
この時に秀吉は明の皇女を天皇の妃として送って来ること、勘合貿易を復活させること、朝鮮の南半分を日本に割譲すること、などの強気な条件を明に突きつけようとします。
これを明の皇帝が受け入れる可能性はまったくなかったため、間に立った小西行長は、沈惟敬に対して内容を書き直して本国に送るようにと依頼します。
小西行長は明軍と戦った結果、日本が明まで進軍してこれを征服するのは不可能だと感じたようで、秀吉の野心を抑えつつ、明と和睦する道はないかと模索し、独断で交渉の内容を改変して事を収めようと画策していました。
当時の明の人口は1億5千万であり、日本は2千2百万程度でした。
これだけを見ても、明がよほどに衰退していなければ、日本軍に勝ち目はなかったことになります。
小西行長は秀吉の降伏文書の偽装まで行い、家臣の内藤如安を北京に派遣しています。
こうして日本と明でしばらくの間は交渉が続き、一時的に和平期間となります。
こうした秀吉の意志が捻じ曲げられた交渉が行われている間に、秀吉は朝鮮半島南部の支配を確立するため、沿岸部に拠点となる城を築き、恒久的な支配体制を確立することを計画します。
秀頼の誕生
鶴松が死去したことで、秀吉は実子を後継者とすることをあきらめ、養子の秀次に後を任せるつもりでいました。
しかし1593年の8月に淀殿が再び子を生んだため、状況が一変することになります。
この子はやがて秀頼と名付けられ、秀吉に再び「実子を後継者にしたい」という欲求を呼び覚ますことになります。
しかしすでに秀次に関白位の継承を行っていたため、容易にそれを実現することはできません。
このため、秀吉は京都に新築したばかりの伏見城に移り、聚楽第に秀次を、大坂城に秀頼を配し、自分がその間に立って両者の間を取り持とうとします。
翌9月には、秀吉が公家に対し「秀次に日本の5分の4を任せ、秀頼に5分の1を与えるつもりでいる」と語った記録が残っています。
なんとか秀頼にも、ある程度は自分の遺産を継がせたいと考えていたようです。
【次のページに続く▼】

 
       
       
       
       
       
               
               
               
              