播磨を平定する
織田軍は三木城に続き、毛利方に寝返った小寺氏の御着城を攻め、これを落城させて小寺政職を追放しています。
黒田官兵衛は主君を失い、ここからは秀吉の直臣として活動していくことになります。
後に官兵衛は落ちぶれて街住まいをしていた小寺氏の当主を召し抱え、数百石の領地を与えて保護しています。
官兵衛が荒木村重に捕らえられた際に、既に小寺政職に裏切られていたようですが、これを許してかつての主家を救済したことになります。
官兵衛は謀略家や策士のように言われることが多い人物ですが、実際には誠実で、家臣たちにも優しい人柄の持ち主でした。
但馬を攻略し、秀長に任せる
播磨の情勢が落ち着くと、秀吉は但馬に出兵し、山名祐豊を再び討ち破ります。
秀吉は1569年にも但馬を討伐していましたが、山名祐豊は後に信長に多額の賠償金を払って許されており、但馬に復帰していたのです。
しかしこの頃には再び信長に敵対しており、二度目の討伐を受けてついに滅ぼされました。
秀吉は但馬を自身の支配下に置くと、そこに弟の秀長を配置して統治を任せます。
秀長は篤実な性格で、兄に劣らず能力が高く、秀吉の補佐役として大いに活躍していくことになります。
こうして秀吉は、山陽と山陰の両方面から毛利氏の領国に攻め込む体制を構築します。
因幡の攻略
1581年になると、秀吉は因幡(鳥取県)に侵攻を開始します。
この時の因幡は鳥取城主の山名豊国が支配していました。
豊国は織田軍の力を恐れ、降伏しようとしますが、家臣団がこれに反発し、豊国を城から追放してしまいます。
そして毛利氏に支援を要請すると、これを受けた吉川元春が、一族の中から文武に優れた吉川経家を送り込み、鳥取城の守備につかせます。
このときに吉川経家は自らの首桶(切り取った首の入れ物)を用意して鳥取城に入るなど、決死の覚悟を持って臨んでいました。
鳥取城の兵力は1000ほどでしたが、毛利氏の援軍の800と、近隣からの志願兵の2000を加えて陣容を整えます。
こうして経家は籠城の準備を進めますが、調べてみると鳥取城には1ヶ月分の兵糧しか用意されていませんでした。
これは秀吉があらかじめ工作をしていたためです。
秀吉は若狭(福井県)の商人を因幡に送り込み、あらかじめ高値で因幡の食糧を買い取らせていたのです。
このため、鳥取城もまた備蓄していた食糧を商人に売り渡してしまっており、これが城内の食糧不足を招きます。
鳥取城の渇え殺し
この年の6月に、秀吉は2万の大軍を率いて因幡に攻め込み、鳥取城を包囲します。
そして黒田官兵衛の献策を受けて食糧の補給路を厳重に封鎖し、むやみに攻撃をせずに包囲体制を維持します。
毛利方は陸路と海路を使って食糧の補給を試みますが、いずれも秀吉方に撃退されて失敗に終わっています。
それでも鳥取城の部隊は耐え続けますが、2ヶ月目には食糧が完全に底をつき、城内の家畜も食べ尽し、3ヶ月めには餓死者が出るに至りました。
そして城内の人々は餓死した者の人肉をむさぼるようにすらなってしまい、ついに4ヶ月目には抗戦をあきらめて降伏します。
秀吉は鳥取城の城主になったばかりで敗北することになった経家に同情し、毛利氏の領国に帰還させると約束しますが、経家はこれを拒否しました。
経家は敗戦の責任を取って自害すると固く決意しており、秀吉からの助命の申し出を受け入れなかったのです。
いささか潔すぎる性格の持ち主だったようであり、秀吉は困惑しますが、信長の許可を得て経家の申し出を認めました。
経家は望みどおりに切腹して果て、その首を受け取った秀吉は「哀れな義士だ」と述べて涙したと言われています。
経家の首は信長の元に送られ、丁重に葬られています。
毛利氏は織田氏に比べると軍事力では劣っていましたが、こういった武将が存在していたことで、傘下の大名たちは毛利氏を信用し、容易に織田氏に降らなかったものと思われます。
こういった傾向が秀吉に各地の攻略に多くの労力をかけさせ、工夫をこらす必要を生んでいたとも言えます。
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